現代アートが分からない。
アートって一体何なのか分からない。
と、ずっと思っていました。
仮にも「アート」をするのであれば、当然「アート」を少しは勉強しなくては!と、いろいろな本を読んだりして、自分なりに『何となく』朧げに分かってきたような気がしますが、では、どうして現代のアートは、こんなにもよく分からないのか?というのが、自分の中で説明出来ませんでした。
そこのところを分かりやすく説明してくれているのが、
「13歳からのアート思考」末永幸歩 ダイヤモンド社 です。
この本によると、「アート」とは植物の「花」(表現)だけではなく、「興味のタネ」「探求の根」から出来ており、アートにとって重要なのは、時間的にも空間的にも大部分を占める「探求の根」であるとしています。
そう言う意味で、レオナルド・ダ・ヴィンチは、真にアーティストであり、20世紀の代表的なアーティストである、マティス、ピカソ、カンディンスキー、デュシャン、ポロック、ウォーホルがそれぞれ乗り越えてきた表現の壁、についても、「そうだったのか!」という、目から鱗の解説がなされています。
マティスが乗り越えたもの
アート=美しいもの
ピカソの乗り越えたもの
アート=正しい描写(遠近法)
カンディンスキーの乗り越えたもの
アート=「何か」分かるもの(具体的な「物」)を描くということ
デュシャンの乗り越えたもの
アート=手間をかけて創作したものであるということ
ポロックの乗り越えたもの
アート=形あるものを「描く」ということ
ウォーホルの乗り越えたもの
アート=オリジナリティ
長い時間をかけて、人びとが培ってきた、アート(芸術)の概念を壊してきたのが、20世紀以降の現代アートであり、我々が、常識だと思っている事を、打ち破り、表現した「アート」をどのように鑑賞するのかも、かなり重要で、答えのない現代の世界を生きていくために、「アート鑑賞」は必要なものになってくるということでした。
正解のない自分なりの「答え」を出し、「答え」の無い世界を生き抜いていくための「アート」。
これが、現代アートに課せられた役割。
でも。
現代にも残る過去の古い芸術作品は、表現の違いこそ様々ですが、現代の我々が見ても「美しい」と思うからこそ、数千年、数百年、残ってきたものだと思います。
果たして現代に数多あるアート作品が、(人類が存続しているとして)数百年後も存在出来ているのかどうか、というのは、とっても疑問ではあります。
ちなみに、マティスやカンディンスキーは私は割と好きですが、誰の目にも美しいのかどうかは分かりません。ましてや数百年後となると…未来人の感性がどうなっているか分かりませんよね。
未来の事は分からないから、表現者の立場から考えてみれば、やはり自分の「興味」と「探求心」の「花」を自分なりに咲かせることが出来れば、アーティストと言えるのでしょう。
では、自分のアートは、果たしてどうなのか?
今一度考えてみたいと思います。